タイトル 美術刀剣類

美術刀剣

日本刀とは

日本刀、それは武士の魂。私たちは時代劇(チャンバラ劇)で多くの日本刀に何気なく接しています。

「折れず、曲がらず、良く斬れる」の3要素を非常に高い次元で同時に実現させるために日本刀の製法には非常に高度な技術が集約されているので、現在でも多くの好事家に愛さて、親しまれております。

現在、武器として発展してきた日本刀は非常に美術的価値が高い上に、日本の歴史を後世に伝える貴重な財物となっています。


日本刀の語源


古来、日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(けん)」と呼び、「日本刀」という呼称を使ってはいません。これは元来、海外からみた場合の呼称です。

日本刀という呼称は北宋の詩人である欧陽修(おうようしゅう)の『日本刀歌』に見受けられます。

この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が詠われています。

『日本刀歌』が歌いたいことは日本刀のことではなく、中国では既に散逸してしまった書物が日本には存在しているということを嘆いた詩でですが、日本刀の美しさが、平安時代後期→鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の一つとされていたことを示しているものです。。

「日本刀」という名称が、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことです。その理由として、外国船等の到来により日本人にナショナリズムが高まったことによるところが大きいとされる。それ以前は「打刀」(うちがたな)という呼称が一般的でした。


日本刀の歴史


日本刀は、政治、経済、文化、風俗、習慣など、その時々の歴史的要因とあいまって変貌を繰り返してきました。

上古から湾刀の出現

古墳時代にはすでに鉄製の刀剣が作られていたようです。例えば埼玉県の稲荷山古墳や島根県の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳からは鉄剣や大刀が出土しています。

注)湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてるものです。

稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣(国宝)には雄略天皇に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれています。この時代の刀剣の多くは朽損していますが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名です。

7-8世紀以降の刀剣には原型を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん)や「七星剣」(しちせいけん)、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」(きんぎんでんそうのからたち)などが知られています。

この3振りは中国、或いは朝鮮からの渡来品と考えられます。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていました。

また、この当時、海外の刀鍛冶が多く渡来してくるようになっており、日本の鍛冶職人の水準も上昇して行ったと考えられます。

正倉院には唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されています。更に、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存しています。

平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつごろどのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、学問的に十分解明されていません。

多分、承平の乱天慶の乱が発生した平安時代中期以降(10世紀ころ)従来の直刀に代わって刀身に反りのある湾刀が使用されるようになったと思われます。

また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り」(しのぎづくり)の刀剣が造られるようになったのもこの時代です。

「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされています。以上の変化の過渡期にあたるのは、柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)です。

注)小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工「天国」(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっています)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名です。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名があります。

太刀の時代

平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀と言います。

良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきます。

このころの日本刀は馬上戦が主体だったので、刃を下に向けて佩く太刀が主体です。

源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀です。

「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めの大同年間(806年頃)とされていますが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっています。

安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工です。

平安時代の太刀の特徴

造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、(きっさき)が詰まって小切先となります。

姿は腰反りが高く、物打(ものうち)の方は反りが小さく、踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしています。

刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入って、(にえ)出来です。

焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多いです。

茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形のものもあります。

鎌倉時代初期

日本刀は平安時代末期とあまりかわらない姿をしていますが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣の需要が活発になったと考えられます。

後鳥羽上皇は御番鍛冶を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励しました。

菊一文字則宗は有名です。この時期には山城国の粟田口派、備前国の一文字派が興りました。

鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差が少なくなり、平肉がよくついてくるのです。

鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでています。

この頃から短刀の制作も活発になります。この時期の短刀の特徴としては、反りがないか、わずかに内反りになっていて、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)があります。

この時期の有名な刀工として、山城の粟田口派の国吉吉光、同国来派(らいは)の国行、来国俊、二字国俊(銘字を「来国俊」でなく単に「国俊」と切る)、相模国の新藤五国光、備前の福岡一文字派備前長船派光忠、備中国の青江一派が存在しました。

山城、大和、備前、美濃、相模の5か国の作刀を特に「五ヵ伝」と呼びます。

これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称します。(相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣があります。)

鎌倉時代末期

二度の元寇や政治体制の動乱により、作刀はさらに活気づいてきました。

この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていきます。

身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えました。

短刀やその他の刀も太刀と同じように長物がでてきます。この時代もっとも著名な相州伝の大家岡崎五郎入道正宗が存在します。

彼の作風はこれまでにない地刃の働き=金筋(きんすじ)・稲妻(いなずま)・地景(ちけい)などと称されるさまざまな刃中の「働き」が顕著です。

正宗の作風は各地の刀工に絶大な影響をあたえました。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいます。彼らの大部分は、後世の仮託、正宗とは実際の師弟関係がないにも関わらず、正宗だと考えられますが、この相州伝が各地に影響を及ぼしたことは事実です。

時代区分では室町時代に包括されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的です。

この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀と呼ばれる大振りなものが多く造られています。

すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしています。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ」(ぐのめみだれ)を交えたものが良く見受けられます。

この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多いです。

またこの時代には小太刀も多少現存しています。後の打刀を連想させるものです。

室町以降

室町時代中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わっていきます。

なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通です。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いのですが、裏銘に切る刀工などもおり、一概には言えないものです。

平和な時代が始まると刀剣の国内需要は低下しました。これに加え明への重要な貿易品として大量生産がなされるようになると、日本刀の質は徐々に低下し始めます。

応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に答えるため更に質の低下した「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになります。(皮肉にも、原料を生産する鉄鋼業は国内におけるたたら技術の進歩、明との交易(倭寇による収奪を含める)による鉄製品の輸入、鉄砲伝来によって急速な進歩を遂げる事になります)。

刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」とは区別がされています。この時期、江戸、京都、大坂に名工が集まり腕を競ったのです。

江戸時代に入ると江戸、大坂をはじめ各地に鍛冶が繁栄し、長曾祢虎徹(ながそねこてつ)、堀川国広などの名工が現れましたが、太平の世が続くにつれ、絵画的で華美な刃文を追求するなど、実用性からは乖離した退廃的な作刀が横行するようになります。

また、この時代には鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七土屋安親横谷宗珉後藤一乗ら多くの名工が生まれました。

幕末期になり世の中が騒然としてくると、水心子正秀(すいしんしまさひで)らを中心に古刀の鍛錬法を復元し、再び実戦的な日本刀が作られるようになります。これ以降の作刀を「新々刀」と呼びます。この時期に当地の山浦一門も誕生しました。

作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎え、明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)3月28日に警察官・軍人以外は帯刀を禁止する廃刀令が出されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまいました。

現代では伝統工芸を保存するため、古式に則った作刀が各地で行われています。当地では相州伝の宮入一門があまりにも有名です。

太平洋戦争降伏後、日本刀を武器であると見なしたアメリカ連合国軍最高司令官総司令部により刀狩が行われ、蛍丸を始めとする数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあいました。

熊本県のように、石油をかけられ焼かれた後、海中投棄された例もあります。

日本刀の登録

一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となりました。

日本刀自体には登録が義務付けられており、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要があります。

刀剣には通常、「銃砲刀剣類登録証(縦12.1cm×横9.1cmの用紙)」が付いていますので、ご購入されればすなわち許可を受けたということになります。

登録証のない刀剣は、登録のための審査を受けて登録証の交付を受けないと所持できません。

所持に関しては銃刀法による制限を受けますが、所有については許可などは必要なく、誰でも可能です。(条例により18歳以下への販売を規制している所はある)。なお、購入などの際には、登録証記載の各教育委員会への名義変更届が必要です。

刀剣の登録は、「対人」ではなく「対物」です。つまり、その刀剣に付いている登録証の名義を変更するだけで済みます

※1 刀鍛治一人当たり年に生産してよい本数の割り当てがあり、刀が多数世に出回らないように制限されています。このため現代刀工でも出来の良いものが作成されるようになりました。


日本刀の価格


日本刀は武器であると同時に、財物でもあります。鎌倉時代以降、権力の象徴されてきた日本刀は江戸時代に至って、豪商なども財物として入手するようになりました。これは武家政治の荒廃を象徴しています。

日本刀の価格は一概にいくらと断定することはできません。それはどんなに優れた名工のものであっても、傷や欠点によって美術的評価が下がる場合があるからです。

逆に地方の名もない刀工のものでも、状態や美術的価値が高ければ、高くなる場合もあります。


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