タイトル 古美術のロマン 風林火山

風林火山
孫子の兵法


疾き事風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し。

戦国の最強騎馬軍団武田信玄率いる武田軍が、越軍こと上杉謙信川名島の合戦を交えてから450有余年が経過した。

本年、NHKにて大河ドラマの「風林火山」の放映が開始された。

ここ信州は、文字通り川中島の合戦が行われた舞台のために、武田信玄との所縁が大変に強い場所である。

甲斐源氏の嫡流の武田信玄は、まず南信濃の諏訪氏へ矛先を向けて猛進。諏訪氏を平定すると、その目標は北信濃。

葛尾山城を拠点とした村上義清は北信州の名将だった。南信濃から北信濃へ進撃する信玄軍を上田原の戦いでは打ち破った!

しかし・・・

信玄の勢いは、収まるところを知らない。数々の奇襲戦略は、現代に見る諜報戦に転じ歴史は信玄側に転じて行った・・・


さて、私も信州人としてこの歴史舞台の狭間に立たされた時、不思議な感覚にさせられるのも事実である。

それは、もしかしたら、私の祖先も信玄によって侵略されたかもしれないからである。

応仁の乱に始まる戦国時代を除けば、室町の足利時代文化は、ともすれば、江戸時代と同様か、それ以上に平和であったに違いない。

その経過は歴史の繰り返しと言えば、それまでである。現在、幕末と呼ばれる徳川幕府崩壊と変わりはないものであろう。

私は個人的に、新撰組に興味をそそられた時代があった。近藤勇が慶長4年に板垣退助らによって処刑された事実を知った時、何故、そこまでするのかという疑念に駆られた。

本年年頭にイラクの元フセイン大統領が超法規的な手法で処刑されたこととなんら代わりがない。

人類の歴史史観において、歴史とは勝者の歴史なのである。数千年にも及ぶ戦乱は現在でも世界のあちらことらで起こっているが、一日も早くに、平和社会の実現を望むものである。


さて、武田信玄について古美術的ポイントを考察してみよう。

武田信玄は、永禄2年の5月まで武田晴信と名乗っていた。これ以降出家して、信玄と名乗った、とされるのが通説である。出家、というのは「坊さんになった」と言うことである。

川名中島の合戦においても、第四回目の合戦(1561年)から信玄と名乗ったとされている(後述)。

号は徳栄軒、戒名が法性院機山である。ただ、ある文献によれば信玄は生前から法性院と名乗ったともされるのは、私たちの身の回りでもたまたま見聞きするところである。

信玄は信仰心旺盛で、天台宗、真言宗、臨済宗との関わりが指摘できる。

このいくつかの仏教宗派との関わりという不可思議な現象は、現在とは大きく世相を異にする戦国の時代における特異現象だろう。

つまり、宗派別による菩提寺的な感覚がなかったか、或いは、現在と比較してその宗派別な係わり合いが脆弱だったと考えられる(信玄自ら菩提寺としての感覚があったのか、否かは別にして、現在では信玄の墓がある臨済宗の恵林寺が菩提寺とされている)。

以下に重要な資料が存在する。

これは、地元の旧家所蔵の重宝である。

※約文:「その方、あまた戦場抜群の働き、これにより伊豆の守叙任つかまつり候、じょおおせつかまつるところ也」
ここに馬場美濃守(武田二十四将中重要人物)の物と思われる花押がある。
多分、史上、初めての知られる物ではあるまいか?


武田古文書で注目されるのが、武田家の印章である。武田家では信玄以降、竜を彫り込んだ朱印(竜朱印)を使用していて、これが一般的に武田信玄(武田家=勝頼も使用している)の印となる。旧来その朱印は3種あったとされている(山梨県立博物館)。

但し、それは現存確認できたもの、と言うことであって、朱印は毎年作り変えられた可能性も否めない。これは、後述するように、武田家は長篠の戦いで敗北を喫し、武田勝頼・信勝の自害によって滅亡してしまっているからである。

このため、現在に残る、或いは発見される古文書資料は断片的で徳川家のように完備、補完されたものとは相当に違うと言うことを念頭に置かなければならない。


信玄の生涯

甲斐守護
大永元年(1521年)11月3日に武田信虎の嫡男として甲斐国・積翠寺城で出生。幼名は太郎。父は甲斐源氏の名流・武田氏の第18代当主・信虎で、甲斐を統一して戦国大名としての地位を確立した勇将である。

信玄が生まれた大永元年(1521年)には駿河の今川氏親臣下の福島正成率いる15,000人の軍勢に攻めらたが、武田軍は信玄の誕生を知って士気を奮い立たせ、今川軍を撃退したとされる。

天文5年(1536年)に今川氏輝が死去し、義元が家督を継ぐと今川氏と和睦し、義元の斡旋を受けて、太郎は三条公頼の娘を室に迎えた。同年に元服し、名を「晴信」と改めた。

初陣は信濃の平賀源心攻めであるとされる。大永5年(1525年)に弟の武田信繁が生まれると、父の寵愛が信繁に移り、晴信は徐々に疎まれるようになったとされる。

天文10年(1541年)、21歳で家老の板垣信方や甘利虎泰らと協議して、実父を駿河に追放し、武田家第19代家督を相続したのは、甲斐の国の不作による庶民の生活苦だったと言われる。

信虎は各方面での戦争を続け、国人勢力の統率に強力なリーダーシップをとる一方で、うち続く戦争と苛烈な政策により、奉行衆の造反を招いている。晴信の家督相続、そして、父・信虎の追放を甲斐の領民たちは歓迎したというが、そういう意味では信虎の圧政が原因であったのかもしれない。


信濃侵攻
信虎を追放した直後、諏訪頼重小笠原長時(既述、後述の村上義清は長時の家臣)が甲斐に侵攻したが、晴信はこれを撃退した。そして天文11年(1542年)6月、晴信は逆に諏訪領内に侵攻する。折しも諏訪氏内部では諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いが起こっていたため、晴信はこれに介入し、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼし諏訪を平定したのである。

続いて同年10月、諏訪領の分割問題から高遠頼継と対立し、高遠軍を小淵沢で破った。天文12年(1543年)、信濃長窪城主・大井貞隆を攻めて自害に追い込むと、翌々年の天文14年(1545年)4月、上伊奈の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主・藤沢頼親も滅ぼした。戦国戦略とは食うか食われるかという殺伐としたものである。

「昨日の友は今日の敵」この言葉は今日にも通じる感がある。

天文16年(1547年)、志賀城の笠原清繁を攻め。この時、笠原軍には上野の上杉憲政の援軍も加わったが、8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。

この時、晴信は敵兵の降伏を許さず、3,000人の敵兵全てを虐殺し、さらに女、子供を人質・奴隷にするなど過酷な処分を下したとされる。この事件が信濃の国人衆に晴信への不信感を植え付け、信濃平定を大きく遅らせる遠因となった。同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(1548年)2月、晴信は北信濃に勢力を誇る村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。しかし兵力で優勢にありながら武田軍は村上軍に敗れて家老の板垣信方・甘利虎泰を含む多くの将兵を失ってた。信玄自身も負傷した。これに乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来たが、武田軍は7月の塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝する。

天文19年(1550年)7月、武田軍は仕返しとばかりに、小笠原領に侵攻するが、小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。この結果、南信濃は武田の支配下に組み込まれたのである。

勢いに乗った武田軍は9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いは後世に砥石崩れと伝えられるように大敗を喫し、横田高松や小山田信有らをはじめとする1,000人以上の将兵を失った。

天文20年(1551年)4月、真田幸隆(海野氏の臣、小笠原に追われ群馬へ亡命、この地で武田の臣下となり故郷上田を目指す)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信濃も武田家の支配下に入った。この時期、武田軍は信濃豪族軍の全てに勝利したのである。


川中島の戦い
合計五度に及ぶ川中島の合戦は、天文22年(1553年)4月、村上義清の要請を受けた長尾景虎が5,000の軍勢を率いて信濃川を南下した第1次川中島の合戦に始まった。しかし、第一回目の合戦では、武田軍も上杉軍も積極的に兵を動かすことなく、5月には両軍ともに撤退した。

8月、景虎の後ろ盾で、身内の大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。大井信広とは、大井婦人(武田信玄の実母)の身内である。

天文23年(1554年)春、長尾景虎に対抗するため、晴信は隣国との同盟関係を形成する。長男の義信の正室に今川義元の娘を迎え、また娘を北条氏康の長男氏政に嫁がせて、後北条氏とも同盟を結んだ。今川氏と北条氏は武田家を仲介として、氏康の娘が義元の長男氏真に嫁ぐことで同盟を結び、甲相駿三国同盟が成立する。

弘治元年(1555年)4月、第2次川中島の合戦。しかし、この合戦も小競り合い程度の物で、駿河の今川義元の仲介により、両者は半年後の10月に和睦して撤退する。武田軍は上杉軍(越軍)が越後に撤退すると、かねてから景虎と密通して武田軍に反していた木曽義康・木曽義昌父子を攻め屈服させた。弘治2年(1556年)には更に北信濃に進出している。

弘治3年(1557年)、長尾景虎が川中島に南下したことにより第3次川中島の合戦が開始。しかし、又、両軍共に戦果は無かった。景虎の留守となった加賀・越中で一向一揆が起こったため、長尾軍は撤退。

晴信の出家
永禄2年(1559年)5月、晴信は出家して「信玄」と号した。これは、現存する断片化した古文書によるものだが、信玄や武田軍に関する古文書自体が断片化していて、
正確なことは不明だとした方が良いだろう。家臣団の編成すら、その全容は未だ解明されていない。

それは山本勘介と同様である。今回の大河ドラマの主人公である山本勘介の実在が証明されたのも昭和44年の市川文書発見によってである。

永禄4年(1561年)9月10日、武田信玄軍2万と上杉政虎軍1万3,000との間で、4回目の川中島の戦いが行われる(第4次川中島の合戦)。この戦いは、それまでの川中島の合戦中、最大規模の戦いとなり、両軍合わせて6,000人余の死者が出たとされる。この戦いで武田軍は信玄の弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力武将の多くを失った。

信繁の戦死の時には、信玄がその体を抱きしめて号泣したことは、現在では周知の事実である。

永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わった。これが第5次川中島の合戦である。

当店の非売品としている古文書は以下のものである。

※この古文書の真偽は判りかねます。戦国時代は江戸時代を遡ります。
特に、武田家の場合には滅亡しているので、真偽判定は不可能です。

何れにしても、貴重な資料であることは確かだと考えます。
今後の研究成果を待ちたいものです。


この古文書は天文21年、現在の出家通説、永禄2年を7年遡る。
しかも、信玄の法名と号が連なって記されている。

竜朱印も現在見つかっているものと多少異なる。
この書も馬場美濃守が奉行として信玄からの命令を受けている



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